城郭建築における初の国宝指定となった名城

名古屋城といえば、金のシャチホコ。このイメージがすべてを凌駕していたおかげで、私は長らく名古屋城へ行くことに興味が湧かなかった。「歴史建造物が見たいのであって、光モノが見たいわけではない」そんな気持ちであったからだ。

名古屋城

だが、実はこの名古屋城、「城郭建築において、日本初の国宝指定となった城」ということをご存知だろうか? 昭和5年(1930年)の指定というから、かつては日本国でも有数どころか、第一級の存在といえる名城であったのかもしれない。
ところが、昭和20年の名古屋空襲で本丸のほとんどを焼失してしまった。もちろん、名古屋市民の熱い要望により、再建され、今に至っている。
再建の詳細は>>名古屋城【2】

で、名古屋城は誰の城だっけ?

そもそも誰の城か、武将の顔がパッと出てこないのは困ったものだ。

愛知県民でない私たちは、つい「尾張だから、織田家? いや、尾張徳川? で、誰の城?」という会話になる。実は、私のサイトに到達するワードの上位3番以内に「名古屋城 誰」とか「誰の城?」がいつも入っている、まさに常連さんなのだ。「自分だけじゃないんだ」と思っていただいていい。
武将の名前は思い浮かばないが、金のシャチホコだけは瞼の裏にクッキリと浮かび上がる。
日本三名城の1つとされる名古屋城が、である。悲しすぎるではないか。

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シャチホコの城でなかったら、一体何なのか?
そこのところをはっきりさせるために、持ち主と変遷をざっと以下に挙げる。

  1. 前身は今川家が現在の二之丸辺り築いた柳ノ丸がその起源。
  2. 織田信長の父、信秀が柳ノ丸を奪取して那古野城と名を改める。信長誕生の城とも言われ、その後、若かりし頃の信長の居城になった。
  3. 信長が清州城に移ってから、廃城となる。
  4. 関ヶ原の戦い後の1610年、徳川家康が加藤清正ら豊臣恩顧の大名たちに城普請を命じ、九男義直の尾張藩主の居城として名古屋城を築城。
  5. 御三家の1つ尾張徳川家の居城として、明治まで17代が継承。

ウィキペディアによると、築城主は徳川家康となっている。主な城主は尾張徳川家。
おそらく、名古屋城としての歴史は、通常上記【4】からを言うのではないだろうか。つまり、”徳川家の城”というのが基本ラインであるはずだ。

現在の名古屋城宣伝戦略をぼんやり眺めると、本来はストレートに”徳川の城”で押し切るべきところをわざわざ「戦国武将売りもしたがっている」と感じる。
名古屋城をアピールするとき、太平の世をつくった徳川のものとしてではなく、戦国武将推しにして、金のシャチホコをイメージアイコンの役割として使っているように見えるのは、私だけだろうか。

豊臣恩顧の西国大名たちを弱体化するためにつくった城

戦国武将推しも続けたい。その心境、実は理解できる。

なぜなら…もし、徳川家康自らその懐から大金を出して天下泰平のために名古屋城を自前でつくったとか、徳川配下の大名たちが主君のために身銭を切って建てた城なら、その心意気に感じて、今とは別のイメージが生まれたのかもしれないと思うからだ。

ストレートに誰の城だと言えない心のモヤモヤの源泉を、私なりに考えてみた。

あの時代を俯瞰してみると、関ヶ原の戦いと夏の陣のはざま、つまり徳川が豊臣家をつぶしにかかる時代に建てられたのが名古屋城というわけだ。

家康はあからさまに豊臣恩顧の大名たちの力を削ごうとして彼らに名古屋城の築城を命じ、かなりの経済的負担を強いた。そして、徳川家のために動くかどうかをチェックしていた。
そうして出来上がった素晴らしい城に大切な我が息子を入れた。
後に勝手な城普請や増改築は許されなくなっている。また、大名たちも城の補強をすることが徳川家に弓引く準備をしていると因縁をつけられる機会になる恐れから、城の増改築申請はなるべく差し控えていたようだ。

名古屋城。それは、京と江戸の間にある重要拠点として機能し、徳川家を盤石にするための城。
戦国大名、とりわけ西側の大名20家に対し、家康は「豊臣と徳川、どっちにつくのか見定めてやるからな」と無言の圧力をかけた。その見え見えのイベントが名古屋城築城であったと見るべきだ。
家康が自分たちの弱体化を図っていると知りながら、一生懸命築城した西国大名たちの気持ちはいかばかりか。

そんなことを想像すると、徳川家を前面に出してアピールするのも、考えものなのかもしれない。
もう一度、名古屋城が出来上がった背景を想像してみる…。戦国武将たちの哀愁が漂ってきそうだ。

名古屋城天守閣の石垣

石曳き

石曳き

日本の三大名城、三名城。
諸説あるが、トリップアドバイザーの行って良かった人気No.1の城に連続で輝いている熊本城が名城の常連。
熊本城の設計者であり、城主として名高いのは、城造りの名手で知られる加藤清正。彼は築城を得意とした秀吉からそのエッセンスを受け継いでいた。そんな清正は、名古屋城天守閣の石垣普請を進んで請け負ったという。
名古屋城にある清正公石曳きの像は、そのときの雅な姿を刻んでいる。

加藤清正

加藤清正は、美しく着飾った小姓とともに大石の上に乗り、綱引きの人々をはやし立て、見物人に酒を振る舞ったと伝えられ、清正の石引きとして有名です。これは、大阪城築城の際の秀吉の故事に倣ったと言われ、秀吉を慕う清正の思いがうかがわれます。

参照:名古屋城公式サイト

城の華、天守閣の見事な普請ぶりは、加藤清正の力によるものが大きかった。
清正は秀吉を慕い、豊臣家の存続に尽力したが、同時に、徳川家にも敬意を払った。どうすれば徳川の世で豊臣秀頼が生き残れるだろう…そう考えて行動していたに違いない。

だからこそ、清正は進んで名古屋城を立派なものにしたのだろう。秀吉譲りの築城技術で徳川の城を築いた清正に「あっぱれ」を差し上げたい。
あの城に住まったのは徳川家だが、築城に力を尽くしたのは辛酸を舐めつつ耐え忍んだ豊臣恩顧の大名家だった。

そのことを思うとき、愉快な顔した金ピカのシャチホコがトップで出てきていいのか?
歴女たる私は「お呼びでない!」とピシャリ、心の中で吠えたくなる。
「ヨシヨシ、日本の中心で“名古屋城は戦国大名の城だ”と叫ぶ。それでいいんだよ。本当のことなんだから」そう言って、心から名古屋城を応援したい。

そうそう、名古屋城の現在の持ち主は名古屋市である。

>>名古屋城【2】 500億円かけて天守閣を木造再建する話

 

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