伊勢と出雲の違いを肌で感じたい

歴女たる者、「天照大御神を祀る伊勢と大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀る出雲の違いを肌で感じずにやり過ごすことはできない」と出雲までやってきた。

神楽殿

知識的な話は専門家に譲るとして、肌感だけで得たものは、出雲にいると大きなものに包まれるような落ち着きがあるということであった。「出雲【2】」で紹介したように、出雲大社には我が国No.1の大きさを誇る何某かがいくつもあった。
その理由のひとつには、大国主大神および出雲大社への敬意の示し方に「大なるものを捧げる」というDNAがあり、それが連綿とここに根付いているせいではないだろうか。日本一の日の丸国旗であれ、コンクリート鳥居であれ、もちろん古代のものではない。大注連縄に至っては、クレーンで吊り上げて奉納しているのだ。どれも現代の科学によってあれほど大きなものを出雲大社に打ち立てることができている。
それらは古代人ではなく、現代人による敬愛のしるしであり、捧げ物であるのだ。

現代人による巨大信仰の表れではないか。

巨大な敬愛のしるしを捧げてきたのは、大国主大神に対する皆のイメージがそうさせるのかもしれない。「巨大神殿に鎮座していた大国主大神様なのだから、そりゃあ大きいものを捧げたい」と心のどこかで思う信者の心理と言おうか。
私は勝手にそう思っている。

出雲大社の隣にある歴史博物館

古代出雲歴史博物館

さて、本題の巨大神殿であるが、それがどんなものであったのかを知るには、出雲大社左隣にある島根県立古代出雲歴史博物館に行くのが定石だろう。

ざっと紹介すると、巨大神殿出雲大社の謎を中心として、神在月の伝承など出雲大社の歴史を紹介している常設展や古代島根にまつわる展示をしている。
うれしいことに、常設展ではフラッシュなしの撮影が可であった。

どうしても見たかったのは、この巨大神殿模型。平安時代の出雲大社本殿1/10模型である。

巨大神殿出雲大社

巨大神殿

巨大神殿模型 現在の出雲大社本殿の高さは約24m。平安時代は現在の2倍の高さ、約48mであったとされる。

従来、最新の建築技術ならともかく当時の技術、しかも木材建築でそのような高さのものは不可能ではないかと、長い間幻とされていたのだが、出雲大社境内から本殿の巨大柱が出土した(博物館に展示されている)段階で現実味を帯びたのだった。

本殿の柱間寸法

平安時代のものも相当凄いが…。
出雲大社の社伝によると、古代出雲の本殿の高さは現在の4倍、96mもあったのだとか。こうなると空中神殿である。
「そんな荒唐無稽な神殿あるか!」と思われていた平安時代の神殿があり得るならば、古代神殿ももしかするともしかするかもしれない。

復元案と言っても、建築士らによってさまざまなカタチがあるようで。

神殿復元案

このほか、他の神社の模型もあり、見ているだけで面白い。

模型

天照大御神が国譲りでした約束とは

よく言われるのは、“出雲は日本の源流”という表現。
これは、社の御由緒によれば、祭神・大国主大神が神代の昔に国土を開拓し、農業・漁業・殖産から医薬の道まで、人々が生きていくうえで必要な知恵を授けて、「国づくり」の大業を果たしたとされているからだ。「日本国の礎を築いたのは大国主大神様だ」という意味だろう。

天孫降臨以前からこの国土を治めていたとされる土着の神を「国津神(くにつかみ)」というが、大国主大神はその代表である。
天照大御神などがいる高天原の神を「天津神(あまつかみ)」という。
津(つ)は現代の「の」の意味。

以下、御由緒に従って天照大御神が国譲りしたときの約束を要約する。

大国主大神が築いた国を「豊葦原の瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」といい、あらゆるものが豊かに力強くある国だった。

稲

大国主大神は国づくりの後、その国を天照大御神へ還した。これを国譲りという。
そこで天照大御神はその国づくりの大業を喜ばれ、以下のようにおっしゃった。

これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いてください。また、あなたのお住居は天日隅宮(あめのひすみのみや)と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命(あめのほひのみこと)をして仕えさせ、末永くお守りさせます。(参詣案内から抜粋)

神統譜によれば、天穂日命は出雲国造の祖で、千家家、つまり出雲大社宮司に連なる。

こうして大国主大神は目に見えない世界を司り、天照大御神の命令によって高天原の諸神が集って壮大なる宮殿を造営した。そして、大国主大神は永久に鎮まることになって、人々の幸福のため慈愛を注ぎ、目に見えない縁を結んでいる。

巨大神殿を造って感謝の意を示した天津神にならって

これだけ技術が発達した時代でも、平安時代の本殿がどうやって造られていたのか「謎」になっていた。出土したものを見て、ようやく昔の人には相当な建築技術があったと学術上認められた。
そうして、出雲にまつわる話はただの昔話、神話という作り話という域から別の次元へと移行しつつあるようだ。

「神話は真話へ」と期待されている。

銅剣

銅剣

私は、天津神と国津神の神殿(神社)の違い、雰囲気の違いを今回の旅で感じ取りたかった。何とかして見つけたかった。けれども、「神道、神社、そういう意味では同じだな」としか思わなかった。

よく考えれば、それはそうだろう。どちらも遷宮によって常に代謝しているし、伊勢神宮を頂点とする神道の世界なのだから、別のものであるはずがない。
何より、天照大御神をお祀りしてきたのは天皇家(今は少し違うが)で、大国主大神をお祀りしているのは千家家。どちらも天照大御神の子孫とされる家系という意味でつながっているのだから。

天照大御神は大きな住みよい神殿を造ることで大国主大神に感謝の意を示し、鎮座する場所を提供した。だから、そこを守る人々は、大きなものつくって奉納することが神に対する敬愛のしるしだと考えていたのではないか。その風潮が出雲に受け継がれて、張り切って注連縄を大きくつくり、国旗も鳥居も奮発して打ち立ててきたのだと私は思う。

そういう愛情表現だったのか、と。
伊勢にはない種類の趣だった。
それに気づいただけでも収穫だった。

>>出雲【1】国譲りは和のこころ

>>出雲【2】出雲大社で感じる巨大信仰

>>出雲【4】観光タクシーで回る神々の海岸線