ご先祖が「平家の落人だ」という人はチラホラいる

ワタクシ、天野川の父方のご先祖は「平家の落人」という話である。
「平家の落人」とは、平安末期に「平家に非ずんば人に非ず」という栄耀栄華を極めてから、あっという間に源平の合戦で敗れ、源氏の平家狩りから逃れ逃れて身をやつし、ど田舎で隠れながら暮らした人々のことなのだが…。「ウチも!」「知り合いもそうだ」という方も多いかもしれない。

平家家紋

平家家紋 丸にあげは蝶

ちなみに、織田信長も公文書上では平氏を名乗っていたとか。そうならば、「あの当時、隠れていなくてよかったのかしら、堂々と名乗り出るなんて…」とか「いつまで隠れねばならなかったのだろう」と思ったりするのだが。

ところで、「日本の家系図のほとんどはニセモノである」というのが歴史家のごくふつうの意見であるのをご存じだろうか? 私は大学時代に歴史を専攻していたのだが、ある日本史の先生が授業中にそうキッパリ断言されていた。当然、平家の落人も例外ではないと思う。ましてや、家系図のない我が家となればなおさらであろう。

「平家の落人伝説」という言葉がある。なにゆえに尻に「伝説」がつくのか?
わざわざ「伝説」とか「伝」とことわっているのは、「そのほとんどが真実ではない可能性がある」ということなのだ。
また、平家の落人という人々の中には、主人と命運をともにした一族郎党、つまりは平氏の血が一滴も入っていない下男下女も含まれているという話である。こうなると、収拾がつかない。

さらには、お家によっては、平という字はそのまま残し、「たいら」から「ひら」に読みを変えた人たちともあれば、まったく別の姓に変えた人々もある。

知り合いに「平」さんがいた。
お話を伺うと、「実はあんまり歴史に興味ないねん。だって、そんないい家系ちゃうしな」とかわされてしまったが、後日あちらの方からいろいろ教えてくださった。
その人は、奈良県の山奥、十津川村のお隣あたりに落ち延びた末裔、つまり「ホンモノ」のようである。
「たいら」とは名乗れず、「ひら」という呼び名に変更。先の戦争で貧乏になったため、祖父の代にひと山売ってそのお金で都会に出たとのことである。
「沖縄にも『ひら』という人たちがいるやろ。あれもそうやで」と。

「奈良って、近すぎませんか? もっと豪快に都から離れるならば、隠れている感じはありますけど」
「え? なんで。奈良の山奥やで。相当隠れてるわ」
「そうかなぁ」

能登の旅、ルーツをたどる旅

さて、話を戻して…私のご先祖は皆明治・大正期の北海道移民であり、とくに父方のご先祖は「能登半島に逃れた平家の落人である」と聞かされてきた。
本名は別にあるが、仮に「天野川家」とする。なんでも、天野川家はもともと石川県能登半島の出で、“天野川村”と呼ばれるほどそこは「天野川」さんばかりなのだとか。
数年前、同じ北海道の阿寒で同姓の土産物屋を発見し、そこの方とご先祖の話になったとき、「ウチは内地から増毛に来たんですよ。でも、もとは平家の落人って聞かされていて」と全く同じことを言っていて「あら、やっぱり」となった。
一体どこかは知らないが、平家であるかどうかは別として、いつか自分のルーツをたどる旅に出たいと思っていた。

天野川家のルーツである能登半島と、平家の落人伝説がある能登半島。
実は一致する。

ネットで調べていると、「時國家(ときくにけ)」という平家の末裔が輪島市内に今もいて、そのお屋敷を資料館にしていることがわかった。
ところが、いまひとつよくわからない。はっきり言うと、熱心に紹介するページになかなか当たらないのだ。輪島市内といっても、駅から歩いては行けないような場所のようで、「行くぞ!」と思わなければ立ち寄ることがないと思われる。
それならば、バスを乗り継いででも行くしかない。

能登平家の郷、輪島へ

輪島駅に着いたら、駅でバス時刻表を入手したい。田舎の常であるが、連結を誤るととんだロスである。観光案内所の方に相談すると、マルをつけて帰りの時間までアドヴァイスをくれた。
輪島駅から海岸沿いを北東へ進むルートである。つまり、もっと半島の先端の方「奥能登」へと行かねばならない。

バス

石川県輪島市町野町南時国13−4

 

11:30に輪島駅発、11:55に白米棚田で一服し、13:30発・13:45着にて上時国(かみときくに)で下車した。

石川県輪島市町野町西時国2−1

2つの時国家

ネットを見て予習したものの、よくわからない。なぜに「時國家」と「本家 上時国家」があるのか? 本家というからには分家と区別したいのかしら。
現地に着くと、目指すお屋敷は200m離れた状態で隣合っていて、上だの、下だの。近いのにバス停もひとつ違う。バスの運転手さんに「どちらに行けばいいですか?」と聞くと、「どっちも資料館なんだけど…あ、そっちは開いてないかも」とかいうので、上時国(かみときくに)で下車した。

本家 上時国家

上時国

御由緒によれば、平清盛の義弟、平大納言時忠(たいらのだいなごんときただ)は、“平関白”とも言われ、一族の実質上の棟梁であった。源平の合戦で平家が滅亡した際、時忠は特別の計らいで能登に配流、そこで没した。
その子、平時国(たいらのときくに)は館を構え…(略)…江戸時代には大庄屋を務め、名字帯刀を許される、とある。

この元大納言の平時忠という人、例の「平家に非ずんば人に非ず」と豪語した張本人とされる人物。平家といってもカラーがあるようで、彼の場合は文官として朝廷に入り込み、権力と知恵で死なずに…つまり、断絶せずに済ませることができたほどの人。
血脈を駆使して天皇の外戚となったり、壇之浦で捕まるものの、三種神器の神鏡を義経に奉じ、また、娘の蕨姫を義経に献じて配流で済ませることができたのだという。

平時国系図

平時国系図

当家は本家です。分家は川下に屋敷を建てるのが礼儀でした。それで川上の当家を上時国家、川下の分家を下時国家と呼ぶようになりました。

External Link>>本家 上時国家

なるほど。本家はコチラ…ということだった。パンフレットには「最大級の木造民家、平家第一の実力者〔平時忠〕の子孫」とある。

上時国

上時国上時国上時国

たしかに、見ごたえあるお屋敷で、館内アナウンスにより、歴史などの説明をしてくれて、とてもわかりやすい資料館となっている。
建物は、180年前に28年を費やして建造され、現在重要文化財に指定されている。
最長部は地上18m。「4~5階建てビルを木と茅で作ったようなもの」とか。第21代当主・左門時輝(さもんときてる)はこの豪壮巨大な屋敷を築いたという。

そこの受付のご親族と思われるご婦人にお話を伺った。

「私のご先祖はここら辺りの出身のようで、後に北海道移民となりました。何かご存じありませんか?」と言ったら、
「この辺りから北海道に渡った人は多かったんですよ」
「え? そうなんですか?」
「ええ。北前船があるでしょ。当家は庄屋で、江戸時代は800石の北前船を5艘所有していたんです。だから、それに乗って北海道に渡った人も多かったと聞きます。リスクも多かったらしいですけどね」

なんと。つながった…。

平家の末裔と北前船

下記に詳しいので、引用する。

かつて天領(幕府直轄地)の大庄屋であった上時国家が北前船で最も繁栄したのは江戸時代後半、文化文政期(1804~30)前後の数十年間だった。(略)
その昔、(略)平時忠が能登に配流され、その息子である時国が、この地で近隣の村々を統治・支配したのが、庄屋としての時国家のはじまりだった。
時国家は、集落で生産されていた炭や豆、曽々木(そそぎ)海岸で作られていた塩などの特産物を近隣で売買するために船を用いるようになった。徐々に航海の範囲は広がり、左門時輝はその商才を発揮して北前船を盛んに往来させ、富を築いた。大坂へ向かう上り航路では、土地の産物を積み、下りは鰹節(かつおぶし)、生姜(しょうが)、椎茸などを運んだという記録が残されている。千石船が一航海で千両稼ぐといわれた時代、時国家の栄華が偲ばれる。

External Link>>のとねっと

江戸時代後半、1804~30年ということは、明治時代でもなかったわけで。ウチの家系とはちょっと誤差があるようだ。

時國家

次はお隣へ。分家と言われている時國家である。御由緒によれば、1581年に能登は加賀前田藩領となり、その後1606年に村の一部が越中土方領となり、時国家は二重支配を受けることになる。1634年に当代が二家に分けて、時國家は加賀藩領に居を定め、「加賀藩領の時國家」だとのこと。
こちらは、分家という意識はないのではないか。

External Link>>時國家

いろいろ熱心に見ていると、ここの若いお嬢さんとお話しすることができた。

下時國家

お嬢さんは、御当家の娘さんであった。気さくな方で、いろいろと尋ねたところ、わかりやすい説明をしていただいた。

平家の生存者のなかで最高重臣であった平時忠が配流されたところは本当に山奥で、現在の珠洲(すず)にあたる。今も携帯の電波が途切れるような場所で「当時はどんなに人里離れていたことか」とおっしゃる。時忠が隠れるようにして住んだ場所は本来人が住まないところだったので、没後に息子の時国が現在の地へ移って、農耕を営んだ。
苗字の「平」は名乗れない。ゆえに名前の「時国」を苗字とし、時国村をつくり、今に至っている。

マヌケな私は「あなたの苗字は何というのですか?」と聞いたら、「時國です!」と笑って返ってきた。。やっぱり私はアホだった。

こちらも重要文化財指定のお屋敷と庭園。ボタンを押せば、各所の紹介アナウンスが流れる仕組み。
また、平家ゆかりの安徳天皇は8歳で入水したのだが、源平八百年を期に邸内社を建立し、赤間神宮より分霊を受けて「能登安徳天皇社」の称号が授与され、ご当主がお社を守っている。

時國家

時国家「ところで、彼らはいつまで隠れていなければならなかったのでしょう? というのはね、本気で平家狩りをしていたら、もっと根絶やしになっていたと思うんですよ」
「頼朝は義経討伐に躍起になっていましたから、それどころでなく、うやむやになったのかもしれません。ある程度時が経てば、それほどでもなかったみたいです。時国がこの辺りに出てこれましたしね」
つまり、平家が離散し、二度と表舞台に立てぬまで弱体化すればそれでよかったのかもしれない。「平家滅亡」という言葉があるが、皆殺しとイコールではないようだ。

たまたま時国家は「配流」という形でもともと助命が許されたので出てこれたのかもしれないが、ほかの生存者は鎌倉時代はひっそりと暮らしていたのではないだろうか。

「平家の落人って、ネットで調べてもあまり出てきませんよね。ほかに知りませんか?」
「母に聞いてきます」と言って聞いてきてくれた。「以前は“平家サミット”とかいうのがあって、集まっていたみたいです」
「へぇ!」
「あとは栃木の湯西川って」

さっそくググルと子孫の方が「平家直系の宿」として温泉宿を営んでいるサイトが出てきて、二人でびっくりした。

琵琶法師

ほかには、全日本平家会というものが昭和60年に設立され、現在も活動があるようだ。

後日談:上時国家・時國家のほかに則貞家も時忠の末裔か?

平時忠が配流され、没する場となった珠洲の大谷(現在の珠洲市大谷町則貞)の住人の大半は時忠ゆかりの深い従者の子孫という。彼らもまた、姓を名乗れず、名を氏に変えるなどして、この地を守り続けているらしい。
興味深いブログがあったので、以下に2つほど引用したい。前者は写真付き。後者は参考に輪島市史などを用いており、なかなか有益である。

流人だった時忠は多少の制限はあったものの、割合に自由が効いており、地元の側女をめとり、2男1女の子供をもうけたと云われています。
ちなみに能登の豪農として栄え、現在も続いている上・下時国家は、二男の時国の血筋だと云われています。
また娘は時忠と都時代に親しく内大臣まで進んだ、名家として知られ明治天皇の生母・中山慶子を出した中山家の家祖・中山忠親(水鏡の作者と云われています。)の後妻に入っています。(略)

この墓所を長く伝えて保存・整備してきたのが則貞家を含む大谷十二家と呼ばれる人たちです。
大谷十二家は時忠が配流された際に随身した従者や家来の末裔と称する人たちです。一部には時忠の末裔を称する家もあります。

則貞家は時忠の前記の能登における長男・時康からなるとされています。
この地の地名が姓名になっていますが、時国家もそうなのですが鎌倉幕府からの監視の目を逃れるために、改姓したと両家は主張しています。また前出の12家も名を姓にした家が多いのが特徴です。
豪農として家名が大きくなった時国家は県内外にも名を知られていますが、則貞家の存在を知るのは一部の歴史通くらいですが、則貞家が古来からこの墓所と屋敷を守り続けてきたことは間違いないことです。
ただ学術調査では、屋敷跡は鎌倉初期と確認されましたが、墓所は室町期の物とみられているそうです。ただ偽物とも本物とも断定できず、県の史跡認定を受けています。

しかし総領が前代の地を受け継ぎ、二男が外に分家するのはよくあることですし、先祖の地を守る保守的な本家よりも、外に新天地を求めた分家が名実・規模ともに本家を凌駕して本総家を名乗ることは、これまたよくあることです。また物品の保存や伝承に関しても富裕さで変わるのも事実です。

External Links>>平時忠墓所&則貞家

墓に近い大谷の集落は、烏川によって作られた狭い平地ですが、住人の大半は時忠ゆかりの深い従者の子孫と言われています。頼兼、頼光、頼正、兼正、それに先ほどの則正(則貞の間違いか?:天野川)など、実名を氏としており、俗に大谷十二名と言われている。従者の実名を氏としたのは、時国と同様に、平氏系の姓を名乗りつづけることに障害を感じたせいかもしれません。

External Links>>時国家

十二名とは、頼兼・則貞・頼政・頼光・兼政・政頼・友安・吉盛・友吉・助光・助友・国吉の十二氏のことらしい。

 

なんと、奥能登における時忠の末裔は、時国家だけではなく、長男時康に連なる家系もあるということのようだ。「ようだ」というのは、断定するすべがないからだ。大納言時忠として、権勢をふるっていた当時に結婚していた家族があり、離縁しているのか否かわからないが、配流後の奥能登の人生では別の家族をつくっている。当時は戸籍上の家族以外にも、様々な形の血脈があって普通であったわけだし、正確に残したくない場合も汲み取らねばならない。

それにしても、則貞家の話が時国家で出てこないのはなぜだろうと思っていたら、時国家の歴史と符号しない部分があるからとか。歴史とは、残念ながらそういうものだ。

平時忠墓

平時忠墓

奥能登旅行の収穫

意外な収穫が多い奥能登旅行となった。
我が家が平家の末裔でなくとも、まったくかまわない。もともとそれほど信じてもいないので。
ただ、能登半島と北海道移民とのつながりが少し明確になって、それが感慨深かった。

北海道移民のご先祖を思う」でも書いたが、明治・大正期に北海道へ好き好んで行った人はほとんどいないはずである。

出自を誇れぬ者たちならではの系譜への無関心さから、私たちの代はおぼろげな話しか伝わってこないのだ。過去を真剣にたどると不幸せなネタが出てくる可能性の方が高い。ゆえに、ここらあたりでルーツをたどるのは打ち止め。

実際につながっているのかはわからないが、平家も天野川家も海の彼方を見ていた人々だったということ。平家は海に出て貿易に想いを馳せた。我が家は祖父の代まで船に乗って海とともに生きた漁師であった。どちらも農耕民族的気質ではない。そんな共通項のまま終わろうと思う。

情報提供してくださった方々、ありがとうございました。

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