池波正太郎の『真田太平記』で描かれる真田幸村

私は常々、「なんで真田幸村ほどの思慮深そうな男が豊臣側に付き、負ける戦をしに大坂城へ入っていったのだろう」といぶかっていた。
池波正太郎の大ファンである私は、真田一族を描いた大ベストセラー小説『真田太平記』を好んで2度も読んだ。ところが、話としては痛快で面白いのだが、どうしてもしっくりこないのである。その1点に関して。

『真田太平記』での真田幸村はこうだ…戦においてセンスのある彼は、徳川軍相手に「とにかく思うさま戦ってみたかった」。忍の者を使いながら徳川軍を翻弄し、勝ち目のない戦ながらアッパレな戦いぶりをして散る。
一方、家康は予想通り悪役。なんとか豊臣家をつぶそうとイチャモンつけて戦に持ち込み、大軍を傾けてなんとか勝った…という、邪魔者を叩き潰す執念の老人扱いである。

「思うさま戦ってみたかった」で納得できるか? いくら戦国を生きたアツイ男の話といっても、私のモヤモヤは2度読んでも晴れなかった。
それを見事に吹き飛ばしてくれた小説があった。山岡荘八の『徳川家康』である。

今回のテーマ「城とは」転じて「大坂城とは」というべきか。少し回りくどいが、大坂城は見る者をどんな気持ちにさせる象徴的建造物であったのか、『徳川家康』から読み解いてみたい。

大坂城

大坂城は豊太閤による「威嚇の城」、太閤死後は「殺気の城」になった

城は「難攻不落」に見え、敵の戦意を喪失させる象徴物であるのが理想だと「城とは【1】」で書いた。
これは外部者からの見え方の話。

難攻不落の城、負ける気がしない城。
もし、あなたがそんな城を受け継いだらどうだろう。もしくは、そんなとてつもない城に出入りする家臣であったら? なにかと勘違いしそうだ。「将軍家が何するものぞ!」と。
実際、秀吉は大坂城を2年でも3年でも籠城できるようにつくっているのだ。

山岡荘八は『徳川家康』で「騒擾の根を持つ大坂城」として戦に至る様子を見事に表現しているので、引用したい。
まずは大坂冬の陣の少し前。柳生新陰流「戦わざるをもって最上の剣とする」将軍家ご指南役の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と家康の問答より。

「然るに、大御所さまは、わが心に敵をつくらねば敵は持たずに済むものとお信じなされて、ご油断なされました。なるほど、大御所さまと秀頼さまの間には、みじんも敵意は介在しませぬ。しかし、大坂城は別ものでござりまする。この城は、日本中の敵を引き受け、びくともするものではないぞという、はじめから四方の敵を意識した、太閤が威嚇の城でありました」

「なに、大坂城は、威嚇の城だと……」

「御意にございりまする。ものにはそれぞれ心がある。京の禁裏の建物は、戦など度外視して建てられた御所ゆえ、あの前に立っても誰も戦意などは燃やしませぬ。ところが、大坂城は違いまする。あの前に立ち、あれを見上げるほどの者は、この城に依って、憎い敵と一戦したら……見上げるだけで、はげしい戦意を掻き立てられる城塞でござりまする

「なるほどのう」

「それゆえ、追い詰められた者も、はげしい敵意を持った者も、不平の者も、野心の徒も、みな何ほどかの刺激を受ける……そのように出来ている殺気の城ゆえ、ビスカイノ将軍が、あらぬことを口走ったり、キリシタン信徒の妄想を掻き立てたり、不平牢人の野心の夢を繋がせたり致しまする」

徳川家康f象

徳川家康

最後の1文を補足する。

  • イスパニヤ人ビスカイノ将軍が口走った:大坂城で秀頼に謁見した際、「江戸相手に一戦するなら、フィリップ3世が何十挺もの大砲を積んだ軍艦を続々と日本に送って加勢する」とかなんとか言ったこと。
  • キリシタン信徒の妄想:イスパニヤなど南蛮系の旧教徒たちが、江戸方に優遇されている新教系の紅毛人イゲレスやオランダ人たちによって追い出されるのではという焦り。大坂城には、そう考えるキリシタン信徒が入り込み、キリシタン旧教の拠点にしようと図っているため、知らぬ間にヨーロッパの旧教vs新教という南蛮人と紅毛人の戦いに日本人が巻き込まれる危険性があった。秀頼または松平忠輝を擁して、江戸方と一戦して勝てば、南蛮系旧教が日本で実権を握り、大坂方に味方した者は出世できるという妄想。
  • 不平牢人:関ヶ原の戦いで西軍についた大名およびその家臣たちが敗戦によって落ちぶれ、立身出世の道を断たれたことによる不満。

豊臣秀頼は、広大な城から出たこともなく、女たちによって危険を避けるようにして育てられた、いわば大坂城の雛壇のお飾りだった。そんな殺気の城に秀頼を移封させずこのまま大坂城に置いておいたのでは、「結果においてむごいことになる」のだ、と柳生宗矩は家康に意見する。

豊臣の遺族たちが大坂城にいる限り、キリシタン信徒や、不逞牢人ら泰平の世に付いて行けない時代遅れの不満分子から利用されることになる。そうなると、せっかく軌道に乗ってきた泰平の世も崩壊し、戦国に逆戻りになる危険性があり、もはや放置できない状況だというのだ。
まずは秀頼に大和の国へ移封させ、武家というよりは豊家の官位どおり公家のお家として永代つづけさせる方法によって着地させ、大坂城という騒擾の根を断つのが狙いであったのだが…殺気の城にいる人々にとっては、「豊家をなきものにするための策略」としか映らない。

真田幸村が大坂城に入った理由

真田幸村は大坂城に入る前、世話になった徳川方の松倉某に会った際「大坂方にはつかないように」と説得されるが、固辞して以下のように伝える。

「松倉どの、ただ一つだけ、申したい儀がござる」

「今更……なんであろうぞ」

「大御所にも、兄上にも、これだけお申しおき願いたい。幸村が味方すると否とにかかわらず、戦は決して止め得まいということでござる…(略)…この世から戦を無くそう、この世をそのまま生きた浄土にせねばならぬ……それが大御所の夢ながら、この世に戦は絶えぬもの……そう言い切った父の言葉にもまことはござる。…(略)…戦は必至……と、見てくると、はじめて豊家ご当代の哀れさが、身にしみじみと見えて参る……幸村には、それが……それが、たまらぬのでござる」

「いよいよもって奇ッ怪な!?」

「(略)…どうせこの世に絶えない戦とならば、それに勝って出世を希おうより、哀れな遺孤に、六文銭の旗ひとさし、贈り加えて果てたいのでござる…(略)…
或いは大御所こそ衆生すべてを浄土へ抱きとろうとする弥陀の化身であるやも知れぬ……が、そこにそれがしの同意しかねる甘さがあると感じられる。どのような大愛を心の奥に蔵していても、現の世界をそっくりそのままは救いきれるものではない……牢人衆の不平不満、二つのキリシタンの衝突、個々の憎しみ、個々の欲望、個々の野心、個々の知恵がからんでゆくと、それは、もはや天道も神仏も裁き切れない混乱を産みだして、結果はやはり戦に還る……左衛門佐が、そう申したと、折あらば大御所さまにお告げ下され。この幸村一人が身を引くことで、秀頼さま御母子がご安泰……そうわかるのならば一も二もなく引きまする。が、そうではない、すでに人間どもの業因が、大坂城をがんじがらめにしつつある。いや、ぬきさしならぬものになった……と、見ゆるゆえに申すのでござる。或いは、真田左衛門佐幸村、その業火の少なきを希うて豊家にお味方しようとしているのかも知れませぬ……ちょうど関ヶ原のおりの岳父、大谷刑部に似た心境で……」

>>『徳川家康』

赤備え

松倉某はのちにこんなふうに幸村を思う。

大御所の考えるような泰平人には、人間なかなかなりきれるものではない。と、すると、左衛門佐は、或いは…(略)…戦国の大掃除を買って出るつもりかも知れぬて
…(略)…豊家に取り入ったという人々が、この泰平の世では、もはやどうにも芽の吹きそうにもない、頑固一徹な世に見離された人ばかり…(略)…そうした人間はどこかで一度、最後の生命力を爆発せねば納まるまい。その人々に火縄をつけて、一度に掃除してやる……とすれば、大坂で乱に及ぶというのも満更無意味なことではない。
他所では、決して一ヵ所に集まるまいからの

>>『徳川家康』

明治初期にも似たようなシチュエーションがあったような気がする。武士というものがなくなり、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱「西南戦争」。
西郷隆盛は、新しい時代についていけず、頑固一徹で世に見離された不満士族らを抱きとって、“一ヵ所に集めてその人々に火縄をつけた”との見方もできる。いつの時代にも自分を変えられずにもがく哀しい人々が爆発の機会を欲しているのだといえないこともない。

家康出陣

家康出陣

「戦はこの世からなくならないのだ。なくせるならば、なくしてみよ!」という父、真田昌幸の遺志。
「どうせなくせぬ戦ならば、人間の業火の少なきを希うて哀れな豊家にお味方したい」という真田幸村。

事実、この世から戦争、紛争の類はなくなっていない。
あの当時の日本では大坂城が「殺気」を引き寄せ、それに依存する者が多くいた。巨大すぎて器量のない者が管理したのでは扱いかね、持て余すやっかいな代物だった。
では、現代でいえばそれは果たして何であろうか…私はそれを考えてみる。

 

>>城とは【1】奪い奪われる”切り取り強盗”が隣り合う時代の象徴的建造物

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